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ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

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短編小説4 『ゴンザとワニ』 ~親友のゴンザは誰かを殺さなければならない。僕らの目の前にはワニが・・・~

http://www.flickr.com/photos/7469185@N07/3564090161

photo by Rein Rache

 

  誰かを殺さなければならない、さもなければ自分が殺される、とゴンザは言った。
 長い話を終えたあと、おとなしいゴンザがたまに見せて周囲を驚かせるあの殺気が、その目に宿っていたように思えた。
 それはもう四十年近く昔のことだが、今もその時のゴンザの目を鮮明に覚えている。
 オーストラリアの北のカカドゥ国立公園の中の粗末なロッジのテーブルで、僕と由美はその話を聞いていた。
 友、ゴンザは、本名を権左衛門(ごんざえもん)といい、真面目な、それでいてゾクッとするような話の主人公の名前としては、あまり都合がよいとは言えない。現代に権左衛門などという名前の人間がいることが不思議だが、理由を聞かされると納得できないわけでもない。彼の家は古くから続く由緒ある棒術の道場主であり、その流派では戦国時代から、その流派を継ぐと思われる子孫の人間の名前は前もって決められているのだと言う。ゴンザがなんらかの理由で家督を継げないとなれば、家督を継いだものが「権左衛門」を名乗ることになっていたらしい。はるか昔の戦国時代に名前を決められたゴンザは、子供の頃から、その名前が嘲笑の的となるたびに渋い顔をしていただろう。が、それでも、いつも「ゴンザ」とか「ゴン」とかいう渾名をもらっていたらしく、それは僕からすれば、なかなか魅力的な渾名のように思えるのだった。
 生まれた時から、その棒術の流派を継ぐことを定められたゴンザは、父や祖父から厳しい鍛錬を課せられたようである。まだ小学生の頃に、母親を病気で亡くしたというから、早々と愛情よりも責務を背負わされた幼少期を過ごしたということだろう。僕がゴンザと知り合ったのは大学時代であったが、その厳しい毎日はまだ続いていたようで、ゴンザは皆と浮かれ遊ぶことは少なかった。実験の後など遅くまで教室に残り、そのまま酒宴が始まるということはしょっちゅうだったのだが、ゴンザはほとんど参加せずさっさと帰った。夜には道場での指導があるからということだったが、そもそもゴンザは権威や目上のものに、そしておそらく親に対しても、素直なところがあり、また、とてもストイックで求道的な、きっとサムライが今の時代に生きていたらさもありなんという男であった。
 たった一度だが、その武術の凄さを見たことがある。居酒屋で僕に絡んできた巨漢のチンピラを、小柄なゴンザはひらりと交わして投げて飛ばし、腕を固めて相手の頬を床に顔を押しつけた。それっきり立ち回りを演じて見せてもらうような機会はなかったが、相手が機関銃でももっていない限り、ゴンザには勝てないのだとわかった。
 ゴンザは最も自分らしくない学問として理学部生物学科を選び、それを天職と定めた僕と同じクラスに通うことになった。かなり内向的な僕は不思議とゴンザとウマがあい、四年間というもの長い時間を一緒に過ごすことになった。
 生物学科には後の僕の妻になる由美もいた。学科に女性は少なく、美しい由美はまさにクラスの花であったが、そうであるために余計、皆が遠巻きにして優しくするのを避けるようなところがあった。僕とゴンザは、クラスの主流の学生たちからは距離を置いていたので、同じように距離を置かれている由美と一緒にいることが多くなった。

 大学一年の時、はじめて会った時から、僕は由美が好きになっていた。
 また、クラスの他の多くの男たちと同様に、ゴンザも由美が好きなのではないか。訊ねることはできなかったのだが、それが自然であるように思えた。
 由美は、中学生の頃にグラビアで見たアグネス・ラムに似た美人で、その笑顔を見せられると、なんとも言いようのない甘苦しい思いが湧き上がってくるのだ。本人はそんな気持ちを知ってか知らずか、ただ、僕とゴンザの間で無邪気にはしゃいでいたのである。
 それでもやっぱり、由美とゴンザと三人でいる時が、僕にはとても気持ちの休まる心地良い時間だったし、その関係を壊したくなかった。由美も、そしておそらくゴンザも、そう考えているように思えた。由美は「どちらをも傷つけたくない」と思っていたに違いない。彼はいないと言っていた由美が、仮にどちらかに思いを寄せていたとしても、きっとその思いに蓋をして暗い深海に沈めてしまう、そんな女性であった。
 とはいうものの、由美が好きで好きでたまらない気持ちは、かなり辛いものでもあった。二十才前後の男性の多くの人たちと同じように、崇高な顔と下劣な欲望をもつ、とてつもない獣を、僕も身体の中に飼っていた。そいつを手なずけ、身体のうちにおし留めておくことにとても苦労した。
 いつか、三人が大学を卒業して別々の道へ進めば、状況は変わるに違いない。
 僕もゴンザも由美も、ほかの相手に会うかもしれないし、そうなれば、きっぱりと諦めたり、堂々と告白してみることもできるに違いない。それもしばらくの辛抱だ、少なくとも僕はそう思っていた。
 
 四回生の秋、三人で卒業旅行へ行こうと、ゴンザが言い出した。僕と由美はまだ大学に残る予定で、大学院の試験に合格したばかりだったが、ゴンザは大学院を受けるでもなく、就職先を探しているわけでもなかった。卒論も早々とヤマを越していたから、ゴンザ自身、将来の身の振り方について悩んでいたようであった。口では「棒術の道場経営なんて時代遅れだ」と言っていたが、最悪、家に帰って道場を継げるのだから、のんびりしているんだなと僕らは思っていた。
 ゴンザの提案で決まった行き先は、乾季のオーストラリアで、北部の熱帯の沿海部や広大なアウトバックの大自然とそこに住む生物が見る旅となった。
 北部のカカドゥ国立公園に向かった僕らは、アウトバックの夕焼けの美しさに予想通りと思いながらも心を揺さぶられ、大地に高くそそり立つ奇妙な蟻塚群を見て、地球というこの惑星の知らなかった表情に驚愕し、レントゲン写真のような奇妙な構造で描かれたアボリジニの壁画に首をひねり、身体にたかる大きな蝿どもに悪態をついた。期待していたとおり、たくさんの動物たちがいた。樹にたわわにぶら下がっているオオコウモリの群れ、レースオオトカゲの巣穴、コシグロペリカンの群れ、草の合間から耳を立てて僕らを見つめているスナイロワラビー。
 国立公園内のロッジに泊まった最初の夜、暇をもてあました僕らは、人に話したことのない秘密ををひとつづつ告白しようということになった。何をしゃべろうかと思いながら、ひょっとして由美が、どちらを好きでいるのか、はっきりさせるようなことを言ってくれるのではないかと、僕は淡い期待を抱いた。しかし、言い出しっぺのゴンザが最初に秘密の告白をすると、そんな思いは吹き飛んだ。ゴンザはこう言ったのだった。
「誰かを殺さなきゃならない。さもなきゃ、俺が殺される」
 僕は驚いて訊ねた。
「誰に?」
「オヤジにさ・・・もしくは、オヤジとジイちゃんに」
「?」
 さて、ゴンザの荒唐無稽な話はこう続いた。
―――実は、自分の家伝である棒術は、表向きのことであって、真に伝えてきた技術のコアではない。本来、自分が父から伝えられたのは、戦場での殺人を専門とする武術である。それは、見せるためのものではなく、ましてや「道」を説くものではない。戦いの時、それが戦場であれ町中であれ水中であれ、とにかくもっとも効率良く相手を殺傷するための、「身も蓋もない」殺人技術である。たとえば、両手を使えない場合の「噛みつき」なども技に入っており、相手の首筋のどこを狙ってどう噛みつくけばもっとも殺傷能力が高いかというようなことを研究し、実戦に使えるように鍛えたものである。その実戦技術は高く評価され、戦国時代には文字通り戦場で、泰平の徳川時代には幕府の隠密の手として、そして明治以降は、軍の特殊部隊などに習得され使われてきた。祖父は、陸軍にその技術を教え実際に訓練を担当していた。そのつながりは、今も、公安や自衛隊との間に秘密裏に受け継がれている。自分は棒術の鍛錬もやってきたがそれは表向きに見せている一部にしか過ぎず、真に辛い訓練を受けて身につけた武術は、いわば殺人術である。そして、それもまもなく父親から免許皆伝を許されるところまで来たのだが、免許皆伝を受けるためには、父から提示された試練を乗り越えなければならない。
「それが誰かをひとり、殺すことだ」と言うのである。
 ゴンザによれば、殺す相手は誰でもよく、極悪人をみつけて殺してもよいが、むしろ、罪のない力の弱いものを理由もなく殺すことができれば、その行為はより皆伝の条件に近いのだと言う。到底理解できない話だが、無理やりにでも理由をつけるとすれば、与えられた任務を完遂するためには、誰かを殺さなければならない時もある。一瞬の躊躇なくそれができなければ、戦時における苛烈な任務を完遂して生き延びることができないから、それを前もってするのだ、ということなのかしれない。
「もし拒めば、オヤジか、まだ健在なジイちゃんのふたりに殺される運命だ。とてもじゃないが、あのふたりを相手に、勝ち目はない」
 ゴンザの家系では代々そうしてきたので、父と祖父が家伝を継いだということは、彼らがその最後の試練を実行したということである。つまり、ふたりはともに殺人者なのである。そして、自分はそのことを知ってしまった。
 半信半疑で、僕は言った。
「逃げればいいじゃないか」
「オヤジもジイちゃんも、権力の中枢と暗部でつながっているんだ。逃げきれるはずがない」
 僕と由美は不思議な感覚に捉えられながら、薄暗いオイルランプの光で浮かび上がるゴンザの顔を見ていた。
 今は戦国時代じゃない。そんなことがあるはずがない。嘘に決まっている。だが・・・
 その思いつめた表情を見ていると、その変な名前だけではなく、本当にそんな宿命を背負わされているんじゃないかとも思えてくるのだった。
 由美の不安げな表情も、そう言っていた。
 突然、ゴンザが笑い出した。
「嘘だよ。嘘に決まってる」
「なんだよ、微妙な冗談言うなよ。びっくりするじゃないか」
 僕も由美もゴンザに釣られて笑った。
 が、ひとしきり笑った後、気がついた。その話は胃のどこかに留まりつっかえて、腹の底から笑えたわけじゃないってことに。 

 カカドゥ国立公園は、イリエワニという巨大なワニがいることで有名だ。ボートに乗って川や湿原に出れば数メーターもあろうかと思えるワニが目と鼻を水面に出しているところを見ることができるし、ロッジから一〇分も歩かない川の対岸にワニが身体を乾かしているところが見えたりする。あちこちに「ワニ注意。遊泳禁止」の看板があり、冗談ではなく、何年かに一度は人がワニに襲われて死亡事故が起きているのである。
 ボートのガイドは不吉な目をこちらに向けているイリエワニを指差して、おそらくこういう意味の英語の説明をした。
「あなたたちは彼らにとっては格好のエサだ。ぜったいに水辺に近寄らないように。頭や腕を食べられた話は事件になるけど、全部飲み込まれたら事件になりもしない。太古以来、きっと何万人という人間が彼らのエサになったに違いない」
 ゴンザのあの話は嘘に決まってると思ってはいたのだが、いつも腹をすかしているらしいイリエワニの姿は、そのつっかえを不吉に彩って、僕の心に蘇らせるのだった。
 たとえば、僕がゴンザとふたりで川のそばを歩いていている時、桟橋にいる時にゴンザが背後を通り過ぎる時、ふと胸騒ぎがして、変な想像が頭をかすめる。 
 ゴンザが僕を一撃で倒して水中に放り込むのはたやすいことだ。
 ワニの鼻先に身体を放り出せば、僕の身体はイリエワニのご馳走、いや、痩せぎすな僕の身体がどれほどのご馳走かはわからないが、ともかく僕の身体は彼らの巨大な胃の中に飲み込まれ、ドロドロに溶けて、彼らの血肉となるだろう。僕は行方不明となり、遺体は永遠に発見されない。
 ひょっとして、あの話は本当で、ゴンザはそのために卒業旅行に僕らをここへ連れてきたのではないか。
 僕の勘どおり、ゴンザが由美を好きなのなら、殺す相手に僕を選ぶことはありうるのではないか。
 もちろん、そんな妄想が頭をかすめた時は、僕はすぐに頭を振った。
――― 一番大切な友達じゃないか、そんなことを考えるなんてどうかしてる。
 が、ふとゴンザの方に振り向くと、川面を見つめるゴンザの目が、夜空に散らばる信じられないほどの星々を見上げるゴンザの目が、時々見せる、あの殺気に満ちているように思えて、震えがきそうになるのである。
 明らかに、ゴンザはいつものゴンザとは違っていた。いつも寡黙ではあるのだが、カカドゥ国立公園でのゴンザは、暗い決断を迫られているようなピリピリした気を放っているように見えたのだ。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、僕はゴンザの身体を始終目で追うようになり、背中をゴンザに向けてワニのいる水辺には近寄らないようになった。
 
 カカドゥには、「ジムジム滝」という愛嬌のある名前をした滝をはじめ、いくつか滝があって現地でツアーが組まれる。
 ガイドのトムに教えられたある滝に行った時に、肝を冷やす事件があった。 
 乾季で水がないとわかっていた。それでも水の枯れた絶壁を見上げる風景は独特のもので見に行く価値があるが、その滝の直下へ行くためにはボートで湖を横断する必要がある。たまたま、その日、ガイドのトムは体調不良で来れなくなったということであったが、湖畔にボートが繋いであるから、自分たちで行きたければ行ってもよいと言われた。そこは有名なジムジム滝でも、ツイン・フォールズでもなく、トムがプライベートで訪れたり、馴染み客をこっそり連れて行くところということであった。
 退屈していた僕らはレンタカーを自分たちで運転して出かけることにした。
 当時の車にはまだナビはなく、紙に書いてもらった簡単な地図を見ながら、でこぼこの道、アウトバックならではの荒れた道を一時間弱走った。ヤシのような樹々の間を抜ける道で、下草は発生してもやがて消えるとほおっておかれる野火でところどころが黒く焦げていた。
 湖に着いた。確かにボートも桟橋につないであった。
 イリエワニは汽水域にいるが、内陸の淡水にも別の種類のワニがいると聞いていた。ここにも当然、ワニはいるな、ゴンザも言う。湖底の土の影響か、水は茶色で深くまでは見えない。桟橋から水面を覗きこむと、その濁りの中、ワニが虎視眈々と僕らの身体をごちそうとして狙って、息を潜めているかのような空想にとらわれる。
 由美が先にボートに乗り、なにかの忘れ物をしたというゴンザが車にいる僕のところへ向かった時、由美が叫んだ。
「ボートが、ボートが・・・助けて」
 僕はまだ車のそばにいたのだが、由美ひとりを乗せたボートがゆっくりと桟橋を離れていくのが見えた。
 ゴンザとふたりで桟橋に駆けつけてみると、オールをボートに乗せないまま、ロープが解けてボートが沖へ押し流されていっていた。すでに手は届かない。手近に投げ渡すロープでもないかと探したが、見当たらない。
 流れがないと思われた水は、その静かな湖面の下で、想像を超える速さで川への流れ出し口に向かって進んでいたようだ。
 そのままにしておけば、由美を乗せたボートはワニの住む湖から川へ、そして、あのイリエワニのいるところまで、オールもなしにどんどん流されていくだろう。
 ゴンザと顔を見合わせたが、よい考えは浮かばない。
――― 濁った川の中には、ワニがいるかもしれない。
 ボートまでは、ほんの十数メーター。
 だが・・・
 僕はオールを二本つかんで、湖に飛び込んだ。
 決死の覚悟で。
 僕は無事ボートに泳ぎ着いて、オールを持って由美のいるボートに這い上がった。
 ワニはいなかった。
 後でガイドのトムから聞いたのだが、その湖にはワニはおらず、いたとしても小型のジョンストンワニで、僕は決死の覚悟をする必要はなかったのである。
 僕の決死の決心は、実のところ、いらぬ心配を膨らませた自作自演のお笑い種であったのだが、この一件で、僕はおおいに面目を立てた。棒術を持ってすればゴンザは由美を暴漢から守ることはできるかもしれないが、とっさの時に、ワニがいるかもしれない湖に飛び込んで、由美を守ったのは僕であった。
 それにしても・・・
 ボートの係留ロープがなぜ解けたのか不思議であった。すでに緩んでいるところに、由美が乗ったり荷物を積んで揺らいだせいで、綱が解けてしまったのだと、ゴンザは言った。
 だが、ほんとうに自然と解けてしまったのだろうか。
 ひょっとして、ロープを解いたのはゴンザだったのではないか。僕が川へ飛び込まざるおえない状況にして、ワニに襲わせるつもりだったのではないか。
 僕はまたそんなことを考えて、また、ありえないとして、その思いつきを振り払ったのである。

 不吉なワニの影に彩られたその旅は、結局、不幸な現実の結末を迎えた。
 ボートの件があった翌日の夜、明日は国立公園を去ろうという日の夜、ゴンザはいなくなったのである。
 由美が別にとっていた一室に引き取ったあとも、僕とゴンザは安物のウィスキーをすすっていた。話題の中心は卒業後の進路に関することが主で、たとえば、ゴンザは僕にこう訊ねた。
「もし、大きな科学的な発見もせず、人類の幸福に貢献するような業績もあげることができず、さらに報酬だってたいしたことがなくても、ほんとうに研究者として生きて、後悔しない自信があるのか」
 ノーベル賞をとった尊敬する研究者が言っていた壮絶な言葉を借りて、僕は気持ちを述べた。つまり、研究者としてはなにか素晴らしいことを発見できればそれにこしたことはないが、その方向にはなにもなかったと可能性を消去していくだけの人生も、それはそれで価値のあるものに違いない、と。
 僕が訊きたかったのは、ゴンザの将来であったのだが、ゴンザはいつものように、人に話を聞くばかりで、自分のことはほとんど喋らないのだった。
 珍しくゴンザは突っ込んで聞いてきた。
「それで、いつまでたっても生活が豊かにならなくても、妻となる人にすまないとは思わないのか?」
「うん、そういう人を選ぶよ」
 二段ベットの下で寝ながら話をしていた僕は、いつの間にか眠ってしまい、朝方に目が覚めた時には、ゴンザの姿はベッドになかった。
 二度寝して起きてみたら、やはりゴンザの姿はなく、朝食の時間になっても、出発予定の時刻を過ぎても、昼近くになっても帰ってこないので、ようやくただごとではないとわかった。
 ゴンザが帰ってこないことをロッジオーナーに伝えると、警察官がひとりやって来た。
 そして、その警察官がロッジから少し離れた川べりに、ゴンザの片方の靴とかばんをみつけたのである。
 かばんのベルトは強い力で引きちぎられてなくなっていた。
 イリエワニに襲われたのだろう、警官がロッジのオーナーに言っていた。そして、僕らにも、怒気を含んだ赤ら顔を向けて言った。
「お前たち、日本人の観光客は、ワニの怖さを知らないのか? 英語ができなくても、サインの絵はわかるだろう。なぜ、お前の友達は、深夜、川べりにひとりで近づいたりしたんだ?」
 たしかにゴンザは川のそばに行き、ワニに襲われて水中に引きずり込まれ、そして巨大な口に飲み込まれてしまったのかもしれない。だが、彼のような武道の心得のあるものが、そんな不注意なことをするだろうか。
 国立公園の小さなロッジはマスコミや警察で大騒動となった。だが、死亡が確認されたわけではなく、行方不明扱いであったからか、日本で大きく報道されることはなかった。
 ゴンザの父は、二三日後に日本からやってきた。
 さすがに道場主だけあって強面の父親は、ワニの腹の中にではなく、ほかのどこかへ行った可能性はないのかと、僕と由美に何度も尋ねた。父親は僕と同様、ゴンザが水辺に不用意に近づいたことに疑問を感じており、また、ゴンザの危険察知能力と運動能力をもってすれば、ワニに襲われることはないはずだと警察に主張した。ワニに食われたのではなく、ほかの事件に巻き込まれた可能性が高いので、徹底的に調べて欲しいと。少なくとも僕らの前で声を荒立てることはなかったが、彼は怒っていた。ゴンザの目に時に宿った殺意にも似た怒りが、彼の目にも現れていた。イリエワニが息子を食ったというのであれば、何千匹いようと、すべてのイリエワニを片っ端から捉えて腹を割いてみなければ納得しない、そんな目をしていた。
 僕と由美も、彼から警察の尋問のような仔細な質問を受けた。喧嘩をしていたのではないか、金銭や女性を巡るトラブルがあったのではないか、彼の質問は執拗で、なかには由美と僕の関係に対する下衆なものも含まれていたから、僕も由美もかなり気分を害した。だが、どれほど突っ込んで聞かれても、僕らも不思議に感じていることであり、彼の満足のいく答えを提供することはできなかった。
 やがて、僕は、そして由美も、ゴンザの告白は、本当だったのだという思いが強くなった。荒唐無稽な話ではあるけれど、そう考えるのが、もっとも納得がいくのだ。どこかで生きているはずだと執念を燃やして警察に食い下がる父親の姿とその目を見ていると、さもありなんと思えてくるのであった。
 ゴンザは、免許皆伝のため、あるいは由美を自分のものとするために、僕を殺そうと迷ったあげく、諦めたのではないか。
 あるいは、誰かを殺すぐらいなら、自分が死んでワニの餌になることを選んだのかもしれない。
 いや、違う。やっぱり、ゴンザは死んでいない。家伝から、定められた自分の人生から逃れるために、芝居をうち、どこかほかの場所で生きようとしているに違いない。
 僕は口をつぐんだ。
 ゴンザの言うとおり、父親が日本国の権力の暗部に通じているとしたら、ゴンザから聞いたことを一言でも漏らそうものなら、僕も「消される」のではないか。
 僕は本気でそう思ったのである。

 その後、ゴンザは現れなかった。一か月、二か月、半年、一年、二年と経つうち、滑稽な話の全体を醒めた目で見れるようになった僕は、やはり、ゴンザは国立公園の川で死んだに違いないと思うようになった。
 どんな完璧な人間でも、ちょっとした過ちで事故に巻き込まれることがある。将来について悩んでいたゴンザが、ウィスキーと悩みで頭の中をいっぱいにしてふらふらと水辺に近づいてしまうことは、あの不吉な作り話よりもずっと現実味があるように思えたのである。
 僕は由美に長年の愛を告白し求婚した。由美は僕を受け入れた。
 ふたりとも学究に身をおいた。職業的にはたいして成功したとは言えない人生であった。僕の研究者人生は、あの夜、ゴンザに言った通りのものになった。
 だが、幸せな結婚生活であった。子供はできなかったが、ごく平凡な夫婦が経験する山や谷をいくつか超え、三〇数年が過ぎた。
 そして、ふたりがもうすぐ還暦という頃、由美が癌で死んだ。
 僕の胸にぽっかりとブラックホールのような穴が空いた。その穴は、生きる意欲も、引きずっていた責務も、研究で目指す夢も、あれだけ強かった好奇心も、すべてを飲みこんでしまうのだった。
 僕は生きていく意欲も完全に失った。

 由美の葬式が終わり、火葬場から葬儀場に帰って来た時、真っ白な髪をした小柄な喪服の男が待っていた。
 ゴンザであった。
 僕はゴンザの肩をつかみ、揺さぶった。
「生きていたのか、生きていたのかよ!」
 嗚咽とともに涙が吹き出した。
「やっぱり、あの話は本当で、ワニに食われたことにして、オヤジから逃げてたんだな。なんだよ、俺になら、言ってくれたらいいじゃないか」
「馬鹿だな。あんな話、本当なわけないじゃないか」
「じゃあ、いったい何から逃げてたんだよ、三〇年以上も」
 ゴンザは僕の身体に腕を回して、背中を手のひらで強く引き寄せた。小さいけれど、厚くて硬い胸であった。
「由美とお前からだよ。俺も、由美が大好きだったんだ。由美に相応しいのはお前のほうだ。それはわかっていたんだ。でも、由美がお前に抱かれると思うと、どうしても耐えられなかったんだ。俺はまだ若かったんだよ」
 僕は驚いてゴンザの身体を引き離してその目を見た。
「なんだよ、それなら、お前が由美と結婚すればよかったじゃないか。そう、言えよ。そう、言ってくれたら・・・」
「俺が死ぬのが、お前と由美にとって、一番良かったんだよ」
「なんでだよ、なんでお前が死ぬのが、俺にとって都合がいいんだよ!」
「お前がいいやつだからさ。それに、由美には、お前が相応しい。由美だって、好きなのはお前の方だった。ワニの湖に飛び込んだお前を見て、俺は、永遠に身を引くのが、正解だと確信したんだ」
「なに言ってんだ。ただの、ワニのいない湖だったじゃないか」
「いや、お前はワニがいると思っていた。あの一件は、全部、俺がトムと仕組んだことだ。俺はお前を試したんだ」
「・・・」
「どう生きるべきか悩んでいた俺は、あれから、フランスの外人部隊に少しいて、その後、パリに行き棒術の道場を開いた。俺は、父親と何人かの親しい友だちには、パリに落ち着いてから連絡した。お前たちには言ってくれるなと念押ししてな」
「なんだよ、やっぱり、ゴンザ、お前は凄いよ。俺の研究者人生は、やっぱり芽が出なかった。由美を幸せにすべきだったのは、お前だったんじゃないのか。ほんとうに、馬鹿なんじゃないか。なんで、そんなに好きだったんなら、俺なんかに構わず告白しなかったんだよ。なんで、俺から奪わなかったんだよ」
「お前が大事な友だちだったからだよ」
「馬鹿! なら、なんで今頃、のこのこ出てくんだよ。俺に恩を着せるためにか?」
 もう言葉は途切れ途切れで、自分でも何を言っているかわからなかった。
 ゴンザは僕のそのひどい言葉に、すこしたじろいたかのように見えたが、勇気を奮い起こした証拠のようにひとつ溜息をついて、こう言った。
「違うよ。お前は、由美と死に別れて、きっと、死んでしまいたいほど寂しくなっているに違いないと思ったんだ」
 ゴンザは小さな子どもをあやすように僕の目を見て言ったのだった。
「でも、ひとりぼっちじゃない。俺っていう、友達もいるんだよ。それを知って貰いたくて、俺は帰ってきたんだ」

 その時、僕は、突然、ゴンザの暗い視線の奥にあるものに気がついて慄然とした。ひょっとして、ゴンザが愛していたのは由美ではなく・・・