人生クソめんどくさいから、新聞社を辞めて着物屋になる
生きていることはクソめんどくさいと思うことがある。
生きていることはクソおもろいと思うこともある。
先日、呉服屋さん知人のところに有名新聞社の方が訪ねて来られた。
その人は40才前後の方で、新聞社を辞めて着物屋になるといって、その知人に話を聞きに来られたというのである。
僕は若いころ、新聞社などのマスコミに入りたくて仕方がなかった。もちろん、かなわなかったが、いまでも強い憧れを持っている。
着物屋の端くれである僕は、着物屋をやめて、新聞社に入ることはできない。
社会の歪みを正したり、弱者を救う新聞社という仕事。保証された高給と社会的なステイタス。もちろん、闇の部分もあるだろうし、先行きの不安はあろう。
が、その人はなぜ新聞社をやめてまで、いまさら、縮小の続く業界でビジネスを始めようとするのか。
今書いている次の本に、会社を辞めて2、3年のことを、当時の文章を元に、詳しく書いている。
恥ずかしい話ばかりで、僕という人間の限界を晒すに等しい内容である。いまだちっぽけな経営者であるがその僕にすら、そんなに小さなことに悩んでいたのかよ、という内容だ。
しかし、読み返してみて思った。
なんだかんだいって、あの時は大変だったけど、今から思えばクソおもしろかったよな、と。
で、その続きで。
そういえば、五十数年の人生、けっきょく、クソおもしろかったよなと。
なにがクソおもしろかったかと振り返ると、クソおもしろかったと思えることはほとんど、やらなくてもいいことを自分であえてやったこととか、できそうもないことをやってみた時とか、みんなに呆れられながらも好きなことをやったこととか、すべてに共通しているのは、そのままスルーもできたのに、あえて腰をかがめてクリを拾いにいった時だったことだ。
会社にいる時もやらなくてもいい初企画をいくつも立ち上げて死にそうになり、辞めろと言われたわけでもない会社を辞め、書かなくてもよいブログを始め、晒さなくてもよい恥を本でさらし、背負い込まなくてもよい責任を正社員として雇用して背負い込み、やらなくてもいい新しいサイトに挑戦する。
なぜそんなことをするかと言えば、僕の場合、理由はひとつ。
人生、クソめんどくさいからだ。
きっと、新聞社を辞めて呉服屋さんになろうという物好きな人も、いまもっているものがどれほど素晴らしくても、人生、クソめんどくさいと感じておられるに違いない。
人生、クソめんどくさい。
1週間のうち半分ぐらいはそういう気分で過ごす。
それでも、残りの半分は、やっぱり人生クソおもろいと思う。
新聞社を辞めて、着物屋になる?
やっぱり、人生、クソおもろい。
photo by Atlas Green