僕と同じような「地味な」若い友へ
何十年かぶりに小学校の同窓会に久しぶりに行った時、参加者のことを思い出せるか不安だったのだが、行ってみると案外昔の記憶がよみがえって、小学生の頃の彼らを思い出した。
が、情けないことに、参加者の何人かは僕のことをまったく思い出してくれなかった。
そういった非対称にはなれている。
つまり、仲間の誰かとふたりで飲みにいっても良い状況になったとき、僕のほうは行きたいのだがそれも言い出せず、相手がじゃあなと言って帰ってしまう。
はっきりした友に「おまえじゃ役不足*1だからな」と言われたこともある。ひでえやつだな!
僕は地味な男だ。
長く記憶にとどめてもらえるような特徴はなく、なにかにダントツに優れているわけでもなく、突拍子もないことをして誰かを驚かすわけでもない。
おまえとふたりでバーに行ったって、ぜんぜんワクワクしない。退屈するばかり。帰って映画でも見るわ。
それでも、少数の波長の合う友はいた。
人数の限られたクラブ活動などでは、自分の居場所がみつかったと思った時もあった。
だから、完全に孤独というわけではなかったけれど、非対称は厳然として存在していた。
ふたりで飲みに行きたいなあと思う魅力的な友がたくさんいたけど、僕とふたりで飲みに行きたい、いや、飲みに行ってもいいと思う友は少なかった。
なんだか急にこんなことを書きたくなった。
ひょっとして、僕と同じように感じて、悲しくなっている若い人も多いのではないかと思って。
まだ若い友よ。
「地味な」友よ。
特別に得意なことが出来なくても、特別におもしろいことが言えなくても、いま、友だちが二人酒に誘ってくれなくても、やがて、そんな非対称を嘆く必要はなくなるだろう。
一生懸命に生きていたら、一生懸命に働いていたら、一生懸命に誰かのためになろうと努力していたら、ひとりひとりと、あなたの真価を認めてくれる人が増えていくだろう。
そういう人たちは、あなたのことをちゃんと見ているだろう。
そして、あなたを大事な友として、大事な先輩として、大事な上司として、大事な部下として、大事な取引先として、大事な父として、大事な隣人として、自分の心に焼きつけてくれるだろう。
あなたに「二人で飲みに行こうよ」と言わないかもしれないが、時にふれて、そういう人たちが自分に抱いてくれている思いを感じることができるようになるだろう。
そして、友よ。
何十年もの交友があっても、あなたの真価を見ようとしない友もいるだろう。
けっして二人で飲みに行こうとも言わないし、時にふれて、あなたのことを「役不足」と思わせる言動をする友が。
歳をとれば、友達の友達だからといって付き合い続ける必要がなく、長い片思いにピリオドを打つこともできるようになるだろう。
「地味な」友よ。
この世の最高のものは、「地味」だからといって手にはいらないわけではないのだ。
安心して、自分の道を行け。
photo by Ryan McGuire