ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

★★★当ブログはじつはリサイクル/アンティーク着物屋のブログです。記事をお楽しみいただけましたら最高。いつか、着物が必要になった時に思い出していただければ、なお喜びます!お店はこちらになります。★★★


毎日、短編小説をひとつ。W氏の新たな楽しみ。

f:id:yumejitsugen1:20131229063804p:plain

 
 最近、一日、一編の短編小説を読むことを日課にし始めた。
 どんなに面白くて、次を読みたくても、必ずひとつ。
 その
一編の感動や疑問や、感心したテクニックを消化しないうちに、上書きしてしまわないうように。

 時間がないときは、短めのものを選んで読む。
 ひとつ読んでまだ時間があったら、そのあとの時間は、長編小説の続きや、エッセイやノンフィクションを読む。

 お正月用にさまざまな作家の10冊の短編集を注文したばかりだが、この習慣を始めて3日目で、大きなカタルシスを感じる作品に出合った。
 横山秀夫氏の「第三の時効」に収録されている3つめの短編『囚人のジレンマ
』である。

 

第三の時効 (集英社文庫)

第三の時効 (集英社文庫)

 

  
 横山秀夫氏は『64』からの大ファンなのだが、重厚な長編にだけでなく、短い物語にも精緻なプロットと深い人物造形ができるのだと知って、また、驚嘆した。

 
囚人のジレンマ』には、3人の、扱いにくいが切れ者の部下たちに乗っかる上司の心情が見事に描かれている。
 3人の班長たちはそれぞれ個性の強い猛者たちで、ホシをライバルの班長達より一刻も早く上げることに血眼になっており、上司に対する敬意、気遣いなどは、いつも後回しにする。
 その上司の心情を読んで、慣れない部署に異動し、リーダーをしたときの心境をまざまざと思い出した。

 部下たちはまさに、ライバル意識の最大のエンジンに、一分一秒のスピードを競って走っており、それがチームの業績となって現れている。
 彼らを束ねる上司の役割というのは、自分がよく知った分野であればさほど難しくはないのだろうけど、自分があまり知らない分野の仕事だったときは、非常に難しくなる。 
 理屈上は、ビジネスの基礎やその会社の生み出す付加価値というのは、部署によらないので、よく現場を見て、高い観点から部下を導いていけばよいということなのだけれど、それは言葉で言うほど簡単ではない。
 部下同士の利害の対立を裁く必要も出てくるが、その対応はとても難しい。
 自分では判断のつきがたいなかで、どちらかをとってみせないといけない場合もある。
 なんだか、こう、雲の上のようなところ、ふわふわのところ歩いているような感じなのだ。

 この短編を読み進むと、そのときの嫌な感じがあまりにリアルによみがえって、ちょっと暗い気分になってきた。
 結局、組織を束ねていくというのは、そういうことで、上にあがるものは、どういう風にか、そのふわふわした雲の道を歩きぬいてしまう。たとえば、この短編の3人の班長たちも、いつかは、誰かひとりが上のポストに上がり、ふたりは「負けてしまう」のだ。上に行くものは、その選別を行って、その時に予想される部下たちの負の思いを、まるで雲かなにかのようにあつかってでも、先に行かねばならない。

 いや、しかし、この短編には、最後に、「救い」が用意されているのだ。
 まったく、想像しなかった、「救い」が。
 

 ネタバレになるから、書かないけど、僕はこの鮮やかな結末に、文字通り「救われ」て、大きなカタルシスを味わった。

 そして、そのあとつらつらと考えた。
 同じく組織に属していた僕は、この短編にあるような、組織の負の側面も含めて、プラスに転じてしまうような実例を見たか、と。
 きのうからずっと考えているけど、そんな実例に思い至らない。
 
 僕らの属した一般企業は、警察のようにずっと存続するものではなく、人々の生活スタイルが変われば、不要になったり、ドラスティックに規模を縮小したりしなければならず、昨今ではその速度も相当早くなっている。
 ひょっとしたら、そのために、この物語りが提示してみせたような「救い」は、一般企業には存在しにくいのかもしれない。

 いや、僕が知らないだけで、あるいは、忘れてしまっただけで、きっと、あったに違いない、とも思う。
 

 この短編を読んでみようかと思われるかたは、最初のふたつから読まれたほうが良い。短編といっても、連作になっており、登場人物は重なるので、本篇を存分に味わうためには、先のふたつも読んでおく必要がある。


 ところで、実名でブログを毎日書いて、もう20か月を超えた。
 最近、自分が書きたいのは何か、ようやくわかってきたのだが、それを多くの人に届けようとすると、相当なテクニックがいることがわかってきた。
 伝えたいことはシンプルであたりまえのことなので、今の僕のレベルでいうと、何か偶然の要素がそれに火をつけてくれないと拡散しない。
 そもそも、伝えたいことっていうのは、本当に伝えたいひとには、伝わらないものでもあるし、この壁が高く屹立しているように思う。
 
 
 短編小説というのは、大切なことを伝えるために、最高のツールだなと、最近、改めて認識している。
 実名で、現実の事象を書く場合、どうしても、制約が大きくなるが、フィクションであれば、その制約を乗り越えることができるのだ。


 いつか、短編小説が書けたらいいなと思う。
 そんな文才もなく、テクニックも習得できないかもしれないけど。
 でも、書けなくても、毎日、ひとつ、いろいろな作家のそれを楽しむことは簡単にできる。
 
 毎日、短編小説をひとつ。
 新しい楽しみが増えた。
   
 
photo by José Manuel Ríos Valiente