「シュールな笑いがわからない」のは加齢のせいか、才能か?
加齢は文章に出る。
しかも、文章のどこに加齢臭があるのか、自分ではわからないから始末が悪い。
いつだって、若々しくみずみずしい文章を書きたいと思っているが、注意して言葉を選んでも、加齢臭は常に漂っているらしい。
読むほうにも、大いに加齢が影響している。
僕らのような年齢を重ねた大人には残り時間が少ない。
残り時間が少ないと、我慢のない、わがままな読み方になってしまう。
そして、最近気がついた一番悲しいことは、シュールな笑いが読めない、笑えないということである。
僕はプロフィールに「お笑いブロガー」などという看板を上げているのだが、悲しいかな、このままでは看板を書き換えるしかないようである。
自分では、自分の書いたものがおかしくて、ついついニヤニヤしてしまうので、さらに始末が悪い。
僕の書くものがあんまり「笑えない」理由は、はっきりしている。
それがベタだからだ。オチをつけないとおちつかないからだ。
ここに色濃く加齢を、人生の残り少ないものの、悲しみを見る。
はてなのホットエントリーを見よ。
そこにあがってくるお笑い系の記事は、ほとんどが「シュール」なものだ。
たくさんの称賛コメントを見れば、それがオオウケしていることはわかるが、僕のツボには入らず、ぴくりとも笑えないものも、正直に告白すると、かなりある。
いや、しかし、僕だって書きたいのだ。
シュールで、大笑いできる記事を。
なぜ、書けないのか、考えてみる。
たとえば、モンティ・パイソンやジャルジャルは「シュール」だという。
僕はどちらも大好きだし、下に動画を貼った有名なコント「ハンドイートマン」も腹の底から笑えた。
想像するに、「シュールな笑い」を嗜む準備はできているのだ。
いや、僕にだって、その才能はあると、思いたい。
不足しているのは、それを「文章から読む能力」と「創造力を膨らませて楽しむ技巧」なのではないのかと思う。
たぶん、批判的精神と人生の残り時間が少ないという焦りが、文章に対する没入力を奪ってしまっているのだ。
もしそうなら、訓練すれば、「シュールなお笑い記事」をもっと楽しめるようになり、いつか「シュールな笑いを生む大ヒット作」を書けるようになるのではないか。
それを加齢のせいにして、諦めてしまうのは、僕の信条に反する。
と、ここまで書いて、やっぱり、絶望的な気分になった。
たぶん、シュールなお笑い記事は、一生書けないのではないか。
ここに書いた文章そのものが、それを証明しているのではないだろうか。
「オチをつけないとオチつかないからだ」と書いて、これではあんまりだと、2回めの「オチ」をひらがなの「おち」に変えた自分が哀れで仕方がない。
哀れだ・・・