ICHIROYAのブログ

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なぜ浮世離れした数学者は世界を変えるほど凄いのか!

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)



日経新聞に「これさえあれば数学を楽しく学べる 20の娯楽作品」 という記事が載っていて、その3位にランクされている「フェルマーの最終定理」を買ったままになっているのに気がついた。
連休中ということもあり、歯ごたえとボリュームのある読み物を久しぶりに読みたくなってページを開いたら、すぐにとまらなくなった。

数学の世界を理解しようとすれば、ある種の才能が必要だ。
僕の場合、高校の数IIまでで、理系だったにもかかわらず、数IIIになると乗り越えられない壁となった。
クラスには数学のスーパーマンがいて、参考書や塾のプリントなどを振り回して右往左往する僕を尻目に、先生の授業だけを、まるでスポンジが水を吸収するように理解して、どんな問題でも彼は楽々と解いてしまうのだ。
どれほど彼のことを羨ましく思ったことだろう。
理系の学部に入ったので、大学でもしばらく数学に未練をもっていたが、いつしか完全に理解の視野から消えてしまい、数学的なアプローチをすることをあきらめてしまった。

しかし、そんな僕でも、高校時代に「微分積分」、「確率」や「虚数」などを習えたことは、とてもためになったと今でも思っている。
数学っていうのは、まったく凄い。
フェルマーの最終定理」を読んでやっと思い出したのだが、虚数というのは、二乗すれば「-1」になる「架空の」数字で、「 i 」で表す。
なにが凄いって、このわけのわからない、数を数えるには何にも役に立たない、「架空の」虚数が、制御理論、電磁気学量子力学などには必要で、世界をより深く理解するためには、「現実の」数であるってことが、「虚数」が発明されてのちに、わかったというところだ。

ところで、フェルマーの最終定理というのは、こうだ。

3 以上の自然数n について、xn + yn = zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組が存在しない、という定理

17世紀の偉大な数学者フェルマーがこの定理を発見し、本の余白にこう書いた「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」。
シンプルなこの定理、フェルマーがその証明方法をみつけたというこの定理が解けない。
以降、数学最大の問題となった。
完全無欠と思われた数学に、これほどシンプルな証明できない定理がある。
しかも、フェルマーの時代の数学で、証明できたはずのものが、誰の手にかかっても解けない。

実際、フェルマーの最終定理を解いたこの物語の主人公、アンドリュー・ワイズがこの定理に魅せられてチャレンジを始めたのは、まだ子供のころであった。自分の使える数学は、17世紀のフェルマーと大差ないだろうと考えて、挑戦を始めたのだった。

しかし、なぜ、この定理がそれほど重要とされたのかというと、答えはあまり論理的でなくなる。
フェルマーの挑発があり、数学者たちの注目は集めているけれど、それはいわば錬金術のような問いで、数学的な謎の中心にあるわけではない、と思う研究者たちも多かったようである。

そして、そこから先、僕の知らなかった驚愕の物語があるのだが、フェルマーの最終定理の証明には、じつは、核分裂の発見やDNAの発見にも匹敵する、数学上の大きな意義があったのだ。
フェルマーの最終定理を証明することは、とりもなおさず、「谷山=志村予想」というまったく別の数学理論を証明することだったのだ。

この本によれば、フェルマーの最終定理の証明は「楕円方程式」と「モジュラー形式」というまったく異なった数学理論に橋をかけることになったのだった。
別の視点から別の方法で緻密に構築された理論が、結局は同じことを言っていたに過ぎないことがわかったのだった。
だからこそ、その発見は、ついにフェルマーの鼻をあかしたというにとどまらず、数学の世界において、エポックメイキングなものだったのだ。
そして、それは数学理論の大統一を予感させるものでもあった。

ちなみに、この物語りには、「谷山=志村予想」という日本人の名前にちなむ理論がでてくるのだが、数学の世界では巨人であるこのお二人の名前を知る人は少ない。もちろん、僕も知らなかった。
が、ふたりの天才のうちひとりは、若くして自ら命を絶っており、そこにも壮絶なドラマがあるのだった。


浮世離れした数学者は、何の役に立たない論理をこねくりまわしているように思える。
でも、彼らは、今の知見では、見えてすらいない、想像すらできない問題を、その特別な頭の中で、何年も、ひょっとすると何世紀も、先取りして考えているのだ。

フェルマーの最終定理を巡る物語は、衒学的なひとつの数式を巡る物語ではなかった。数多くの人間が真実に到達しようと試みた挑戦の物語の数々は、3世紀にわたる大きな軌跡を描いて、いま閉じられたのだ。

スリリングな、このうえなくスリリングな物語だった。