ICHIROYAのブログ

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アメリカで、「筆記体」は不要とされつつある。手書きの文字に未来はあるか?

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by klepas

若いころ、ある地方都市の料亭の女将さんの話を聞いて、とても感心したことがある。
その料亭は、僕などが行けるようなレベルの料亭ではなく、地方の支店のトップになっておられた上司が、その地を訪ねた時に連れて行ってくださったのだ。
着物姿の似合う、素敵な女将さんだったのだが、お礼の葉書を書くという話になったとき、彼女の手紙の書き方に、青二才の僕は、とても驚いた。

彼女は、葉書サイズの他の紙に、下書きをする、という。
そして、文章と文字の配分を、その下書きで固めてから、その下書きを見ながら、葉書を書くという。
それでも、うっかり間違えてしまうことがあるので、お礼状の手紙を書くのに時間がかかって仕方がない、と。

そもそも、ろくに手紙も書かず、メールで済ましてしまう僕は、葉書の下書きをする、ということに驚いたのだけど、なるほど、伝統のある超一流の料亭を背負っていくためには、葉書の礼状ひとつにも、それほどの気持ちを入れなければならないのだな、と納得した。

彼女の書く手紙、文字は、あの着慣れた着物姿同様に、さぞ、美しいものなのだろう、と思われた。


なぜ、いまその女将の礼状の話か、というと、アメリカで、「学校で、筆記体を教えることは必要なのか」という議論が起きており、その議論が面白く、ふと思い出したのだった。
筆記体を教えることが、アメリカの共通カリキュラム (the Common Core Standards)からは外されたために、それをカリキュラムに加えるかどうかは、州や地方に任されることになり、議論が巻きおこっている。


最近の調査によれば、現実には、純粋な筆記体で書くひとはわずか37%、一方、ブロック体が8%、混合して書くひとが55%だという。
うちにも手書きの葉書や為替をいただくことがあるのだけど、たしかに、中学校の教科書にあるような筆記体で書いてあるものは、ほとんどない。
正直、なかなか、読みづらい字体で書かれているものが多い(僕らが日本人だから読みにくいのか、ネイティブでも読みにくいのかは不明)。


もちろん、廃止派は、美しい筆記体を書くノウハウなど時代遅れで、現代社会で生き抜くために、もっと他に教えるべき重要なことがある、と言う。

必要派は、こう主張する。
手で文字を書く訓練をすることは、脳の発達にも良い影響を与えるんだ、と。
また、便利かどうかではなく、「筆記体のような忍耐と訓練の必要なことを学ぶ」スキルを育てることが重要なのだ、とも。

しかし、必要派の主張は、ちょっと弱い気がする。
手で書くことが、脳の発達には良いかもしれないけれど、「筆記体」で書くことが、「ブロック体」で書くよりも、脳の発育に良いという科学的根拠はなさそうだ。
「忍耐と訓練の必要なこと」も、なにも、「筆記体」である必要はなさそうに思える。

すくなくとも、上記の記事を読む限りでは、「筆記体を書く授業」の必要性は、アメリカ社会では、強く認識されていないようである。


日本で言えば、書写(もう「書道」とは言わないそうだ)の授業をやめてしまおう、という話なのだが、おそらく、そういう意見は、日本では、受け入れられないだろう。

ありがたいことに、ここ日本では、いかにPCやインターネットが発達しても、あの女将さんのように「綺麗な字を書く、心を込めて書く」ということが、何かほかのものと置き換えうるもの、とは考えられていないのだ。
少なくとも、僕らの世代までは。


日本が時代遅れなのか、アメリカがどこかで間違えているのか。

僕らの世代の頭が硬いだけで、やがて日本も、アメリカと同じように、書道の時間などなくなってしまうのか。

なかなか、興味深い議論だな、と思った。