ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

★★★当ブログはじつはリサイクル/アンティーク着物屋のブログです。記事をお楽しみいただけましたら最高。いつか、着物が必要になった時に思い出していただければ、なお喜びます!お店はこちらになります。★★★


場の雰囲気を読める大人になれ、それを踏みにじる勇気をもった野蛮人になれ!

f:id:yumejitsugen1:20130619065559j:plain
by francisco_osorio


「場の雰囲気を読むことにかけちゃ、オレは天才だ!」
とある市場でつぶやいたら、爆笑された。

つまり、僕は、どうやら、「場の雰囲気が読めないオトコ」という、嬉しくない評判をもらっているようなのだ。

そういえば、こんな思い出がある。
大卒で就職し、内定式かなにかのときだった。
人事の課長さんか誰かが、話をしていて、ちょっとくだけた雰囲気になり、数十人いた同期の男性たちは、着慣れないスーツを上着を脱いで、くつろいでいた。
で、誰か偉いさんが来て、訓辞をするらしき雰囲気になった。

僕も新入社員らしく背筋を伸ばして座りなおしたのだが、しんと静まり返ったところで、課長さんが、怖い顔で言う。
「なっとらんやつがいる」
なんのことかな? ははは、馬鹿なやつもいるな。
「上着も着ずに、お前なにやってる!」

と、その課長は、僕の目をみているではないか。
たしかに、言われてみれば、上着は脱いだままだ。
周囲を見ると、いつの間にか、僕以外の全員が、上着を着ているではないか。

僕は赤面し、あわてて上着を着た。
それにしても、こいつら、忍者みたいや!
いったい、いつ、上着を着たんやろ。ひとこと、僕にも、声をかけてくれたらいいのに。

そういえば、僕の人生は、その後も、そういったことが繰り返された。
らしい。
自分では、「ちょっと、まずいことを言ったかな」と思うことはあっても、「場の雰囲気を読める」と言っただけで爆笑されるほど、ずれてはいないと思うのだけど、やっぱり、ずれているのだろう。

おかげで、僕は、ここにいる。
会社の大きな組織では役に立たず、今いる業界でも、異端者扱いのようである。
そこで、思うのである。
やっぱり、いわゆる「できる大人」は、「場の雰囲気を敏感に読んで対応する」ことが一番大事だなあ、と。
なぜ、僕にそれができないのか、真剣に考えてみるに、原因は、いくかあって、ひとつは、先の上着事件が象徴するように、単純に「鈍感」であること。

「鈍感」というか、もうちょっと、正確に言うと、「注意力」が「場の雰囲気」を読むことに向けられていなくて、ほかのことに向けられている。
もちろん、まったく無縁のことを考えていることもあるけど、案外、「その場の課題」を真剣に考えていることだってある。

「中途半端」「実効性のないこと」「無意味なこと」「うわべだけのこと」などが大嫌いっていう面もあるかもしれない。
上司やその場を仕切るひとが、それもやむなしと思っていたとしても、納得がいかず、さらに議論をしようとしたりする。
まあ、そいいう面からいうと、貪欲で粘着質なのだけど、まあまあ、そこまで言うなよ、みたいな雰囲気もたしかにあって、そう感じたことも多かった。

でも、たぶん、一番の原因は、価値観が、ずれているのではないか、と思う。
ずれているというか、いつのときも、それぞれの集団に属しながら、その集団を律している価値観に、強い反発を覚えてしまう。
それを飲み込めばいいんだけど、いつまでも大人になれない僕は、それが行動に出てしまうので、「変わったやつ」「こまったちゃん」になってしまうのだ。

僕のような「場の読めない人間」は、大企業で出世はできず、せいぜい、小さなビジネスのオーナーで終わるので、自覚のあるひとは、注意が必要である。

だが、さらに、こんな認識も必要だ。
この類型で、人間を分類してみると、次の4つになる。

1.場の雰囲気は読めて、それに忠実に従うもの
2.場の雰囲気は読めず、それに従う意思もないもの
3.場の雰囲気は読めるが、ときにそれを踏みにじるもの
4.場の雰囲気は読めないが、従う意思はあるもの

僕の場合は、(2)らしいのだが、もちろん、ベストは、(3)である。

当然ながら、ときには、場の雰囲気なぞ、ぶっ飛ばすことが必要だ。

たとえば、1972年のニューヨークシティマラソン

今からは想像できないけれど、当時は、女性にマラソンなんて、と思われていた時代だった。
それがわずか、40年前のことである。
女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもあたりまえのように語られていた。
女性アスリートの中から、マラソンへの参加を求める声があがったが、マラソンの主催者はそれを拒否。たとえば、ボストンマラソンをはじめて走った女性は、参加を認めない主催者から、「同時刻に同じコースを走った通行人」として扱われ、記録と認められなかった。

ニューヨークシティマラソンは1970年に始まり、その年は、AAU(全米体育協会)のルールを盾に女性の参加を承認しなかった。翌年から、限定的に女性の参加を認めたものの、10分早いスタートとした。
そして、翌1972年。
男性のスタートに先立つこと10分。
スタートラインに誘導された6人の女性ランナーたち。
スタートを待つ200人以上の男性ランナーの前に並び、号砲を待つ。

そして、号砲とともに・・・
彼女たちは、走りださなかった。
AAUの時代遅れの対応に抗議するプラカードとともに、座り込んでしまったのだ。

その時の写真がこちらにある。(上に書いた内容も、こちらの記事で知りました)

この一件は大きく報道され、女性のマラソン参加に対する見方を大きく変えた。

主催者にとっては、「場の雰囲気」を読まない、とんでもない迷惑集団に見えただろう。

だけど、ときには、「場の雰囲気」なんて、くそくらえ、なのだ。
なにかをなすためには、「場の雰囲気」を読みつつ、それを踏み越えていく、踏みにじっていく蛮勇が必要なのに、違いない。

ということで、今後は、「場の雰囲気が読めず、それに従う意思のない」二流の人間から、「場の雰囲気を読める大人に、そして、それを踏みにじる勇気をもった野蛮人」になれるよう努力します。
いままで、いろいろ、ごめんなさい!