嫁の胸にあらわれた不吉な兆し
そう言えば、3か月ぐらい前に、嫁に見せられたとき、なんだか不吉な気分になったのだ。
すぐに、医者に行けよ。
明日は、バタバタしてるから、また、行けたらいくわ。
・・・
胸、ちょうど肩甲骨の下あたりに、小さな黒いほくろかイボのようなものができていた。
そして、そのほくろを中心にコンパスで描いたように、円状の黒っぽい線が見えているのだ。
ちょうど、CDぐらいの大きさの。
なんだか、その中心の点が、じつは、とても邪悪な危険なもので、体の奥に芯があり、そこからその黒い勢力を伸ばして、そんな風に見えているような気がしたのだ。
でも、痛くも痒くもないという。
お互いバタバタしていて、不吉な思いを残したまま、すっかり忘れてしまっていた。
で、昨日、また、嫁が言ったのだ。
見て、大きくなって、ちょっと、痛むのよ。
嫁はTシャツの首をちょっと引き下げて、その部分を見せる。
たしかに、中心の黒い部分は、少し大きくなって、濃くなっている。
周囲の円状の変色も、以前見せてもらった時より、よほど、はっきりしている。
明日、病院、行ってくるわ。
うん、そやな。
話はそれで終わり。
でも、もちろん、心配な気持ちがどんどん膨らんでいく。
こんな、イボとか、ほくろとか、見たことがない。
悪い病気だったら、どうしよう。
いや、あの不吉な様子は、尋常ではない気がする。
ああ、しまった。
なぜ、3か月前にみつけたとき、何が何でも病院に行かせなかったのか。
ひょっとしたら、もう、手遅れになっているかもしれない。
こっそりと、iPhoneのブラウザを開いて、検索してみる。
「ほくろ 同心円状」
「ほくろ 大きくなる 痛み」
幸い、同心円状のシミに関する記述は見当たらない。しかし、大きくなり、少し痛むほくろについては、怖い説明が次々に出てくる。
もし、怖い病気だったら、どうしよう。
何か月も、何年も続く、辛い闘病生活。
そして、ひょっとしたら・・・
ああ、もっともっと、嫁に優しくしておくべきだった。
会社を辞めてから何年も、死ぬほど働いてもらった。
ひょっとしたら、あの時の疲れが、ついに、こんな形で嫁の体に現れたのではないか。
ああ、悪いことをした。
そもそも、僕なんかと、結婚してくれたのが、嫁の最大の間違いだったのではないか。
もっと楽な、優雅な生活を送らせてくれる旦那と結婚していたら、こんなことには、ならなかったかもしれない。
申し訳ない。
そして、自分ひとり、この世界に取り残された場合、どうなるのか、その光景が浮かんできた。
嫁なしで会社を回すなんて、無理だ。
同居している、認知症の嫁のお父さんの面倒をみることだって、できそうにない。
この世に、100%味方してくれる唯一の人間。
その嫁を失って、これから20年も30年も、僕は生きていけるのだろうか?
不安な一夜が明け、嫁が病院から帰ってくるのを待ちながら、いつものように仕事をする。
いや、「いつものよう」にではない。
振り払っても、振り払っても、不吉な想像が、心配が浮かんでくるのだ。
それも、リアルに。
闘病生活に入るとして、その間、会社の仕事はどうしたらいいのか。
スタッフは、十数人いる。
いま、嫁がやっていることを、誰かに背負ってもらわなければ、事業を存続させることができない。
でも、どうやって?
ああ、それにしても、結婚してもう、30年以上。
嫁を幸せにできたんだろうか?
嫁は、僕と結婚したことを、後悔しているんじゃないだろうか?
いまから、僕にできることは、何だろうか?
10時過ぎに、嫁が会社に現れた。
やけに、早い。
唾を飲み込んで、近づいてくる、嫁の顔色を探る。
11時に、もう1回来てくださいって。
検査とか、したの?
まだ。予約なしだから、それくらいの時間になるって。
しばらく仕事をして、嫁は、もう一度、出ていった。
じゃ、行ってくるわ。
事務所に、みんなと残されて、また、不安が膨らんでくる。
振り払っても、振り払っても、不安から逃れることができない。
不安に押しつぶされそうになる。
心の平衡を保つために、何か良い方法がないか。
まず、最悪の仮定を受け入れて、何がおきるか、リアルに想像してみた。
そして、辛いことは、頭から追い払って、良い面がないかと、楽しいことはないかと、真剣に考えた。
やもめになる。
心の傷が癒えたら、ひょっとして、人生、最後の恋ができるかもしれない。
精力の減退著しく、しかも、こんなかっこ悪いおっさんだ。
誰も相手にしてくれまい。
でも、無理に考える。
きっと、それも可能だ。
若い子がいいかな、いや、体力的に無理だし、同い年ぐらいか、ちょっと下がいいか。
笑い話じゃないのだ。
不埒じゃないのだ。
そうでも考えないと、不安で不安で仕方がなかったのだ。
で、相手を見つけるには、どうしたらいいのかな、と考えた。
村上龍の「 55歳からのハローライフ」を思い出し、お見合いクラブに登録するのがいいかもしれない、と思う。
そして、その相手と、エーゲ海かどこかに、新婚旅行に行く・・・
そっちの方向で、想像を膨らませ、ようやく不安な気持ち追い払った頃。
嫁が帰ってきた。
ど、どうだった?
ただのイボだって。レーザーで焼いて終わり。
生検とかは?
要らないって。
もう、行かなくていいの?
うん!
嫁よ、ほんとうに良かった。
そう聞いたとき、ひょっとして、僕の表情に、かすかにがっかりした色が垣間見えたとしたら、上に書いた理由があったからなんだ。
たまたま、僕の頭のなかが、ちょっと不埒になっていたのは、上に書いたような理由があったからなんだ。
ほんとうに、良かった。
これからは、もっと、話も訊くし、もっと、優しくなるからね!
ぽてちん。
PS この記事が「胸のイボ」というような検索で時々読んでいただいているようです。嫁は大丈夫でしたが、早く治療した方がよいものもあるでしょう。僕が言えることは、心配なら、すぐに病院に行ってください。どっちにしても時間はかかりません、って言うことだけです。よろしく!