ICHIROYAのブログ

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死ぬまで、イタイ感じで行こう!(朝井リョウ氏の『何者』を読んだ)

何者

何者




朝井リョウ氏の『何者』を読んだ。
直木賞も受賞し、あまりに評判が良いので、久しぶりに若い方の書いた小説に手をつけたのだけど、青春小説かと思って油断して読んでいたら、最後に、予期せぬ大どんでん返しがあって、思いっきり、ぶっ飛ばされた。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』にも、『ライ麦畑でつかまえて』にも、『オーギーマーチの冒険』にも、最後に、ひっくり返されることはなかった。
青春の、あの一時期を描いた小説というのは、ゆったりと身をまかせていれば良いものと、相場がきまっているのだ。
まったく、『何者』には、びっくりさせられた。


ところで、強く感じたことは、『なにも変わってないな』ということだ。
僕が就活をしたのは、もう、30年以上も昔のことだ。
エントリーシートやツィッターなど、小道具は変わっても、就活の本質は変わらない。
そして、もうひとつ、変わらないものがある。
僕はすでに54歳なのに、20代前半のときと変わらず、『何者』かになりたいとあがいていることだ。
自分のなかの、一番恥ずかしいところ、20歳ならまだしも、50歳を超えた自分が抱いている『何者でもないが、何者かになりたいとあがいている自分』をズバリと暴かれたようで、まったく、僕にとっては、胸をえぐられる、イタイ小説であった。


僕らの就活の時代も、エントリーシートこそなかったけど、誰もが知っている有名企業に入りたいという思いは同じだった。
プロフィールに書いているように、僕は京大だったので、就活には苦労しなかっただろうと思われるかもしれないけど、そうでもなかった。
バイオがいまほど騒がれる前の農学部だったし、すでに1年、留年していた。
クラブは体育会のアイスホッケー部で、副将をしていたのだけど、それも、就活にはさほど役に立たなかった。


そもそも、就活のスタート時点から、腰がひけていた。
就活にも、会社に入ってからも、とても勝ち抜いていけそうになかった。
とくに、ホッケー部の先輩たちを見ていると、そのレースに参加することすら、無駄に思えてくるのだった。


ホッケー部には、医学部や理学部、工学部から法学部まで、さまざまな学科の人たちが集まっていたのだけど、みんな、ずば抜けて頭が良かった。
僕は一時、将棋の本を読んで少しかじっていたのだけど、ある時、理学部の先輩と一局打つことになった。
僕は自信満々で、その先輩をギャフンと言わせてやれると喜んだのだけど、あろうことか、将棋の経験のほとんどないその先輩に、あっさりと負けてしまった。
その先輩の頭の良さに、まったく脱帽して、その後、その先輩の言うことには、120%盲信することにしたのだけど、その先輩ですら、こう言ってた。
「オレの頭は、大したことない。オレより頭のいいやつが、理学部にはウヨウヨしている。学者で大成するのは無理だ」
ともかく、みんな、頭が良いのだ。
僕のように、浪人して、暗記勝負で、しかも、毎日12時間、座りすぎて、最後には痔になって、ようやく農学部に潜り込んだものとは、頭の構造が違う。


しかも、先輩たちは、頭が良いだけでなく、バイタリティーの凄い人たちばかりだった。
僕はと言えば、クラブや学費を稼ぐためにバイトに明け暮れ、また、それを理由に授業にも行かず、完全に落ちこぼれて、バイトが休みの日も、授業に行く気はさらさらおきず、というか、精神的にほとんど行けず、5回生になっても、だらだらと1回生がほとんどの英語とドイツ語のクラスをとっていた。
もちろん、先輩たちは忙しそうで、クラブの練習に精を出して、僕ら後輩のケツを叩くだけでなく、実験やゼミで走り回っており、合宿所でも、空いた時間に勉強をしていたりするのだ。
そして、前にも書いたけど、たとえば、新4回生で新キャプテンを決めないといけないとき、新4回生たち5人は、みんな、自分がキャプテンをする、と言い張って、長い話し合いに入ったのだった。
ともかく、そういう人たちだった。


僕らの時代には、「リア充」という言葉はなかったけど、まさに、「リア充」の超エリートのような人たちだった。
そういう先輩たちは、もちろん就活もラクラクとこなしていた。
クラブのOBには超一流企業の方たちが多くいて、うちに来てくれと、引っ張られていた。
総合商社のNO1とNO2の両方から引っ張られ、どっちにしようか決めかねている、とか、そんな状態だった。
また、僕らは、そういう一流企業は、死ぬほど忙しく、生き抜いていくことが、よほど大変だ、と脅されていたのだけど、先輩たちは喜々としているだけで、まったく躊躇している様子もない。


で、僕はと言えば、もちろん、誰も、引っ張ってはくれなかった。
世間様というのは、見ていないようで、実際のところ、慧眼でもって、僕のダメなところを、いつもちゃんと見抜いているのだった。
授業にも行かなかったので、教授が就職先を紹介してくれるはずもない。


そして、そもそもやる気がない。
あの先輩のような人たちに混じって、いったい、僕に何ができるのか。
あの頭、バイタリティー、自分が、自分が、という迫力。
絶対に、無理。
でも、どこかに、自分を生かしてくれる道があるのではないか。
どこかに、『何者』かになる道があるのではないか、と思う。
いまの、ありのままの自分が、もっと活躍できる、もっとイチモクおかれるところが、きっとどこかにあるはず。
そう思って20年、逃げながら、生きてきたのだ。
そのときの僕に、「また、逃げるのか?」といってやりたいけど、たとえそう言われても、僕の心には届かなかっただろう。
僕は、やっぱり逃げたのである。


『何者かになる夢』をあきらめきれなかったので、自分の時間をすべて注ぎ込まなければならない就職先には、腰が引けた。
重役面接まで行ったある有名企業。
当時は、まだベンチャーの趣を残しており、死ぬほど働かされるという噂だった。
当然、「死ぬほど働いて、会社の大きくなり、自分も成長する」などという話は、サラリーマンオヤジの神話として、ハナから信じなかった。
そこに採用してもらったら、「死ぬほど働かされて」、「死なない」までも、『何者かになる』夢は諦めなければならない、と真剣に心配した。
僕は、重役面接の前に、わざわざ、人事担当者にアポをとって、のこのこと出向いて行き、「御社の労働時間がすごく長いって聞いているんですけど、休みとか、ちゃんとあるんですか?」と尋ねた。
ともかく、その時の僕は、それほど、アホだった。


そんなアホだったので、業種など、どこでも良かった。
保険、メーカー、商社、小売など、まったくランダムに選んで受けた。
ひとつだけ本命っぽい会社があって、そこは、海洋開発を主に海外で手がけている小さな会社だった。
解禁日の4月1日は、かなり気合を入れて、東京まで出向いた。
しかし、その会社は、面接を受けさせてはくれたのだけど、面接官が、「う~~ん、水産学科か・・・養殖関係のひとは、最近は要らないんだけどな」と言った。
それなら、先に言ってくれよ! わかってたら、他に行けたのに!
と、思ったけれど、まあ、こっちの動機もかなり不純なので、お互いさまではあった。
ちなみに、10年後ぐらいに、その会社が破綻したと聞いたから、採用してもらっても良かったのかどうかはわからない。


ともかく、僕の就活はそんな具合で、当然ながら、次々に落ちた。
百貨店の大丸さんが、どういうわけか、内定をくれた。
大丸さんが、僕のアホさ加減を見ぬいていないわけもなく、おそらくは、採用大学のリストに花を添えるために、やむなく採用してくださったのだろう。
たしかに、いまではどうだか知らないけれど、当時、京大から、小売や外食へ就職しようという人は、ほとんどいなかった。
大学まで行って、わざわざ、百貨店の売り子さんになるのか?というのが、周囲の印象だったろう。
そして、当時のアホな僕も、もちろん、「婦人服を売っている自分」ではなく、「広告のディレクションをしている宣伝部の自分」をイメージしていた。
「リア充」ではない僕は、また、女性たちとの交際にも恵まれていなかったので、女性がたくさんいる職場!と思って、自らを慰めていたのだった。


さて、かように、今も昔も、就活というのは、大方の誰にとっても、『何者かになりたいのか、何者かになることを諦めるのか』ということを否が応でも選ばされる分岐点である。
そして、たしかにあなたは、あなたという唯一無二の存在だけど、べつに『何者でもない』し、将来もきっと、『何者にもならない』ということを、はっきりと突きつけられる時だ。


そして、おおかたのみんなは、それを受け入れて、みんなと同じレースに身を委ね、少しでも先へいこうと、少しでも、負けまいと全身全霊をかけて頑張る。
僕のように、あるいは、『何者』の主人公のように、冷めているものもいる。
そういう人からみると、就活に頑張りすぎているひとは、少し、イタイ感じがする。

でも、あえて、『何者』かになろうとして、そのレースと違う道を歩いているひともいる。
そして、言わすもがなだが、こちらも、相当に、イタイ感じがするのだ。


よく考えたら、それは、就活の時だけに限らない。


ミドルになっても、なお、組織のなかで、絶対に負けまいとレースを戦っているひともいれば、あえてそのレースからははずれ、『何者』かになろうと戦っているひともいる。
そして、やっぱり、どちらも、イタイ感じがするのである。
もちろん、40・50歳にもなれば、自分の到達点に満足して、そこに安住しているひともいれば、そこで諦めてしまうひともいる。
世間的には、40・50歳というのは、それが普通と思われているから、その歳になってもまだ、『何者』かになろうとしているひとは、イタク感じられるのであろう。
そして、それは、60歳になっても、70歳になっても同じだろう。


でも、朝井リョウ氏も言っているように、それでいいのだ。
余程のスーパー「リア充」の人たち以外は、イタイ感じがして、当然なのだ。
イタイ感じのしない人間というのは、所詮、傍観者に過ぎず、自分の人生をちゃんと生きてはいない証拠なのだ。
就活に命がけで取り組んでいる学生も、なんだかイタイ感じのするミドル、シニアも、そう感じるのは、その人が、一生懸命に、なりふり構わずに、生きているからだ。


だから、だから、やっぱり思うのだ。


死ぬまで、イタイ感じで行こう、と。