ICHIROYAのブログ

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さらばエレベーターガール~百貨店の失ったもの

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昭和58年というのは、大韓航空機撃墜事件がおきた年だが、個人的には大きな節目の年であった。
その年、大丸が大阪梅田に出店し、大丸に就職した僕は、そのオープンに立ち会うことになったのである。

それは、心斎橋という、電車で十数分という至近距離に本店を持ちながら、同等規模の店を巨額の投資をしてつくる、という博打にも似た出店であった。 

当時、計画の中心におられたのは、大丸松坂屋百貨店持ち株会社JFRの現会長奥田さんであった。

そして、その年の大卒新入社員は男女合わせて、100名近く。
梅田店の出店にそなえた、大量採用で、そのなかに、僕と嫁も含まれていた。
そのうち、半数近くが、梅田店に配属された。

同期の連中は、なかなかのものであった。
女性たちがよくできる、という話を、研修中にさんざん聞かされていたのだが、たしかに、同期の女性たちは力のあるビジネスウーマン揃いであった。
男性たちも、できる連中で、かつ、遊び上手なものが多かった。
彼らはおおむね、私大の経済や経営の卒業で、おしゃれで、遊び上手、しかし、将来のこともちゃんと考えているような連中だった。
僕は、国立大、理系、体育会という異質な存在で、たしかに、百貨店というおしゃれを売る職場には不釣合いに、スーツ姿もやぼったいのであった。

僕らは、梅田店のオープンという会社にとっては歴史的な日に、社会人として、はじめて店頭に立ち、接客をすることになった。
オープン当初は、凄い数のお客様が押し寄せた。
同期の男性陣は、お客様の整理や、催会場で婦人服やら、ハンドバッグなどを売る仕事を命じられた。

その頃、同期として競っていたのは、「呼び込み」であった。
大きな声で、「ただいま、こちらのコーナーでは、婦人セーター、初夏モノのセーター各種を、3000円均一でご提供しております。ぜひ、お立ち寄りください!」と叫んで、担当売り場にお客様を集める。
最初は、気恥ずかしく、その声がなかなかでない。
しかも、その短いフレーズを、ある程度変化させながら、始終叫び続けるのは、よほど難しい。
気のきいた連中は、先輩の口調をまねて、さっそく自分のものとし、流暢なダミゴエで叫び続け、お客様の山を築いている。

「包装」の技術も競い合った。
簡単なのは、いわゆる「キャラメル包み」で、広げた紙の真ん中に、商品を裏向きにのせて、商品の後ろと上下の端の3点で、セロテープでとめる。
しかし、プロとしては、ちゃんとした包装を、すばやくきれいにすることが求められる。
あの包装をなんというのか忘れてしまったが、包装紙の角に斜めに、そして上向きに商品を置き、商品を紙の上で回転させて、最後に、たった1か所、テープでとめる方法だ。
その方法で包装すると、包装紙の縞模様が斜めに出て、裏の真ん中に、「大丸シール」がひとつだけ貼られ、なんとも、エレガントな仕上がりになるのである。
しかも、キャラメル包みより、すばやく包めるのである。

僕は呼び込みは苦手であったが、包装には自信があった。
この包み方をするには、商品の大きさによって、最適なサイズの包装紙を選ぶこと、それを正しい位置において包装を始めることが、重要なのであった。
そのうち、僕は、先輩たちと同じく、商品の箱を見ただけで、最適な包装紙を無意識に選べるようになった。

そして、
オンナの園のような百貨店にときはなたれた、遊び人たちである。
集まればすぐに、オンナの話になる。
お酒売場のだれだれがきれいだとか、いや、ハンドバッグのだれだれが一番だとか。
もちろん、最高のあこがれは、「エレベーターガール」たちであった。

タイトルにわかりやすいように、「エレベーターガール」と書いたが、ほんとうは、ぼくらは彼女たちのことを「コキャク」と呼んでいた。
正確に言うと、「総務部顧客係」の女性たちで、エレベーターに乗って、エレベーターの運転をしたり、店内に2,3か所ある「案内所」でお客様の問い合わせに答える。
制服も、彼女たちだけは、特別で、エレガントなスーツ姿である。
そのスーツも伊達に着ているわけではなく、立ち居振る舞い、笑顔、話し方も、徹底的に訓練されており、営業用とわかっていても、何かの用事で話をする機会があると、その笑顔にどきっとするのであった。
正確な案内をするために、コキャクの女性たちは、店内のことをくまなく知っているのだが、なかには、英語や中国語の堪能な女性もいて、まさに、トクベツな集団だったのである。
エレベーターの乗車は激務らしく、40分乗って、20分休憩とか(細かい点は忘れてしまった)、勤務体系も、一般の社員とは、まったく異なる。
彼女たちの休憩所があるのだが、その休憩の20分を、彼女たちが、どんな風に過ごすのか、同期の男連中は興味津々だった。

そんな憧れのコキャクの誰かを知っている、
そして、合コンをする、というのが、同期の男連中の切なる願いであった。

 

あれから30年近く経つ。
大丸梅田店も、開店当初は売上は芳しくなく、だいぶん叩かれた。
三越伊勢丹が、ちょうど、あのころの大丸梅田店のように、業績不振で苦しんでいる。
そして、阪急が、ようやく全面改装オープンしたという。

30年の間に、百貨店も変わった。
電気製品の売場がなくなり、家庭用品家具などの売場は縮小されて、ファッションの売場が広がり、催会場は縮小されて、社員は減り、仕入れや各店の機能は本社に統合された。
もちろん、「コキャク」も縮小され、「エレベーターガール」はいなくなった。

この間、百貨店が失ったものは、「夢」である、という。
新しい生活スタイル、より高質な毎日の暮らし、遠い憧れの地の空気。
かつて、百貨店に探しにいったものは、いまの百貨店にはない、という。

阪急がそれを取り戻してくれるのか。
そもそも、そんなことが可能なのか、僕にはわからない。

でも、かつての仲間たちは、きっとやってくれるだろう。
同期のワルたち。
先頭を突っ走っていたヤツはすでに辞め、僕と同じく、自営業の身だ。
子会社に出向している仲間も多い。
が、大丸直営店のうち、なんと、3店(東京店、心斎橋店、神戸店)の店長は、同期の連中が勤めているのである。

きっと、ヤツラが、「夢や憧れを売る」などという陳腐で使い古された言葉では表現できない、新しい百貨店像をつくりあげていってくれるだろう。

そう、そして、

ココロから笑顔で言って欲しい。
さらば、エレベーターガール、と。


(写真は 1931年の松屋浅草店。屋上に「航空艇」がある)