僕はひとなみはずれた心配性なんだろうか?
先日、あるひとと話をしていて、「心配性ですねえ」と言われた。
話の流れはこうである。
ニューカレドニアかどこかの南国の島で、半分働いて、半分は海岸でのんびりして、暮らしたい。
そうですね、僕も老後にそんな生活をしたいとも思うけど、もし、夫婦のどちらかが死んでひとりになってしまい、ボケたり介護が必要になったとき、自分がどうなってしまうか心配。
日本のように介護の制度もないだろうし、それこそ、みぐるみはがれて悲惨な目にあうんじゃないか、と。
「え~~? そこまで考えますかあ。どうせ、そうなったら、自分では何もわからないから、いいんじゃないですか?」
「まったく、心配性ですね」
う~ん、そうなんだろうか。
認知症の義父を毎日見ていると、そうなる自分の姿が目に浮かぶ。
最後まで自分で自分の身を処したいとは思っても、それが不可能なことがはっきりわかる。結局、誰かに身をまかせねばならない。
そのため、僕のできることは、娘たちに極力負担をかけないように、そのときにそなえて用意しておくことだ。
ちゃんと健康保険、厚生年金を払って、なるべく多くの給付をもらえるようにしておき、施設に入れても、金銭的な負担がないように、資産を築いておく。
どれだけの資産を残せるか、わからないけど。
生活費が安いからと、老後、海外に移住するひとも多いようだけど、そのあたりの心配はどうされているんだろう、とふと思った。
ところで、もうひとつ、気になっていることがある。
フェイスブックやTwitterで、逐一、どこへ行く、ここへ行った、そしてとくに、海外へ行く、などと呟いて、大丈夫なのかな、っていうことだ。
身の回りのことを逐一つぶやいていたら、会社はどこで、家はどこで、家族構成がどうで、家には誰がいて、いつからいつまで、会社も、家も留守になる、ってわかってしまう。
世界中の空き巣の皆さんに、誰もいませんからどうぞ、と公言しているようなものだ、と思うのだ。
断言してもよいが、最先端の空き巣諸君は、Twitterとフェイスブック、Mixiをチェックして、シゴトの段取りを決めている。
僕の場合、会社も自宅もセコムにはいってはいるが、長期間、事務所にも家にもだれもいないときは、やはり気になって、「お盆休みで、家族で、東京に来ています~」とか、あまり呟く気がしない。
なるべく、そういったイベントが終わってから、書くようにしている。
やっぱり、僕は、ひとなみはずれて、心配性なんだろうか。
まあ、とことん心配性なら、40歳も過ぎて、会社を飛び出したりしないだろうけど。