できそで、できない、写真と書!
できそうでできない。
簡単そうに見える。
かたや、シャッターを押すだけ。
かたや、筆でざっざっと書くだけである。
はずなんだけど、絶対に、プロの撮った写真のようにはならない。
プロの書道家の書いた書のようにはならない。
カメラは 試してみた。
一眼レフのデジカメ、ソニーのα700を買い、三脚なども買い、ゲージュツ的な写真を撮るべく努力した。
もちろん、写真集なども見て、よい写真とはどういうものなのか、というイメージも頭に焼きつけた。
良い写真がどういう写真か、見分けることはできる、と自信はあった。
良い写真が見分けれて、ちゃんとしたカメラがあり、多少訓練して技術を磨けば、ゲージュツ的な写真は撮れるはずだ、と確信した。
ところが、いくら撮っても、駄作ばかりである。
幸い、フィルムの時代ではないので、フィルム代がかかるわけではないが、駄作ばかりで、ハードディスクがすぐにいっぱいになってしまう。
とりあえず、最大画質で残していくけど、どれだけひいき目に見ても、どれもこれも駄作ばかりである。
写真のいいところは、文章やほかの創作物と異なり、自分のつくったものを、客観的に評価しやすいところだ。
自分で書いた詩や小説が傑作ではないと思うことはよほど困難だけど、自分が撮った写真が傑作ではない、ということは、自分ですぐにわかるし、受け入れられるのだ。
そのため、やがて僕は理解した。
写真のうまい下手は、一にも二にも才能である。
うまい人は、iPhoneや携帯でも、さらりと傑作を撮ってしまう。
メーカーの宣伝にのせられて、高いカメラを買っても、いい写真は絶対に撮れない。
わかりました。
僕には写真の才能がない。
でも、ちょっとした疑問が残っている。
僕には「写真を見る」才能もないのかな?
いるかいないか知らないけれど、もし、「写真の批評家」みたいなひとがいて、
超一流の「写真の批評家」ではあるけれど、自分で撮った写真は、めっちゃ、下手みたいなひといるのかな?
まあ、そんな疑問はどうでもいい。
きのう、金澤翔子さんの書を見ていて、また、感動し、無性に、書が書きたくなった。
太ももほどの太さのある筆で、「愛」とか「怒」とか「絆」とか「恥」とか「金」とか、思いっきり書きなぐってみたい。
それを屏風に貼って、和室に飾ってみたいではないか。
かっこいい書がかけると思うだけどなあ!
でも、もちろん、ほんとは、わかってますよ。
また、写真とおなじような結果が待っていることは。
悲しいことの多い人生だなあ!
( 写真は 下手さ極まる??書の帯 )