ICHIROYAのブログ

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柔道一直線、ブルース・リーそして福見選手

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僕は、柔道の有段者である。
柔道着を着れば、黒帯を締めることができる。

もうちょっと、別な言い方をすれば、初段である。

そういえば、誰も驚いてくれないので、そのことを言う機会はまったくない。 

世間というのは、いろんな専門の分野のことは何にも知らないくにせ、なぜか、「柔道初段というのは、たいしたことはない」ということだけは、ちゃんと認識しているのである。


まったくもって、腹立たしい。

まあ、たしかに、残念ながら、柔道をある程度やった、と言えるのは、二段からである。 
 

昨日から、女子柔道48㎏級の福見選手のニュースをテレビでよく見ている。
どうやら、常人をはるかに上回る練習の鬼で、理論家、かつ、苦労人らしい。
確実とはいえ、番狂わせなく、ぜひ、金メダルを手にして欲しいものだと思う。


しかし、いま、悔悟の念にさいなまされている。

運動能力は人並み程度しかない僕である。
なぜ、子供の頃から今に至るまで、ずっと、柔道だけに絞らなかったのか。

ドラマ「柔道一直線」を見て感動し、家の近くの柔道教室に通い始めたのは、中学時代だった。
柔道着をたたんで帯で結び、そいつを肩にぶら下げて、誇らしげに自転車で通った。
茶色の帯をもらったとき、どれほど嬉しかったことか。
さすがに、神社の石の階段を転げ落ちる勇気はなかったので、友達と公園の芝の上で練習したりした。
そして、高校では柔道部に入部。
たまたま、昇段試験を受けにいったら、小柄な中学生が3人続けて相手に出てきたので、一発で初段に。
運も実力のうち、と思った、あの時が、思えば、僕の柔道人生のピークであった。
 

高校の柔道部が軟弱だったせいもある。
ちゃんとした指導者がおらず、練習に疲れたら、先輩たちから率先して、みんなで寝転んで馬鹿話。
僕らの学年が2年になり、3年生が受験でいなくなっても、なんとなく、民主的でテキトーな雰囲気のまま。
僕もそれなりの努力しかせず、学年で最弱の位置に甘んじていた。

しかし、ともかく、僕の柔道にかける情熱もまったく失われてしまっていたのだ。

ブルース・リーのせいでもある。
汗でねっとり濡れた仲間の胸をほっぺに押しつけられる寝技の練習をするぐらいなら、ヌンチャクの練習をしたい、と本気で思っていた。
柔道なんてダメだ、やっぱり、空手やカンフーなどの打撃系でないと、と。
あのころ、極めれば柔術の関節技が最強である、と教えてくれる指導者がいたら、その後の僕の人生は変わっていたかもしれぬ。

しかし、そんなこんなで、大学ではアイスホッケー部に入り、柔道とは完全に縁を切ってしまった。
そして、中年になってからは、剣道の門をたたいたりしているのである。

もし、子供のころから40年、柔道の鍛錬だけ続けていたら、今頃どうなっていただろうか。
もちろん、並以下の運動神経しかないので、オリンピック選手になれるわけもなく、段位もせいぜい二段どまりだったろう。
しかし、並以下の運動神経しかないからこそ、何かひとつだけに絞って、長い期間真剣に取り組むべきだったのだ。
きっと、俊敏で、硬い筋肉質の身体を手に入れていただろう。
そして、 関節技や寝技もマスターして、自分に降りかかってくるかもしれない予期せぬ暴力にも、ある程度、対処できる自信はできていただろう。

まったくもって、自分のいい加減さ、首尾一貫性のなさが、腹立たしい。
 

ああ、ほんとに相当、腹が立ってきた。

柔道だけじゃない、僕の人生そのものが、いい加減さと、忍耐のなさと、一貫性のなさで、貫かれているのだ。

だめだ------

今日の話は、どうしても、オチない。

とにかく、僕のことなんぞ、どうでもいい。
福見選手!
金メダルまで、あとほんのすこし。
がんばって! 


( 写真は アンティークの歌舞伎衣装 龍になりたかったなあ